テイチクレコード

レコードレーベル紹介
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奈良市餅飯殿にあった南口商事社長の弟であった南口重太郎と同じく大和郡山で蚊帳の販売を行っていた吉川島次が大阪に「スタンダード・レコード」を設立。吉川は、蚊帳の販売と同時に当時はやり始めた蓄音機の販売代理も行っており、当初は蓄音機も販売していたようだ。
南口は忠臣楠木正成を崇拝しており、このとき「楠公印」のレーベルマークを商標登録、のちにテイチクでも使われる。

民族資本のレコード会社としてキングレコードと並ぶ老舗である。
演歌・歌謡曲の売上が過半数以上を占め、日本コロムビアと並び同ジャンルが主力商品となっている。

1931年(昭和6年)2月、合資会社、帝国蓄音器商会を設立。
1932年(昭和7年)5月 新譜を第一回発売とし、1枚80銭の黒盤(5000番台)を標準規格商品とする。
1934年(昭和9年)2月 株式会社に改組して「帝国蓄音器株式会社」に商号変更し本社を奈良市に移した。1枚1円の緑盤(15000番台)を発売。
1934年(昭和9年) 日本コロムビアから作曲家の古賀政男を抜擢して重役に任用し、同社から録音技師と社員も呼び寄せた。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、ディック・ミネも専属とした。
1936年(昭和11年) 藤山一郎、美ち奴が入社。本社を奈良市肘塚町へ移転し工場も設備拡大を行う。
1938年(昭和13年) 古賀政男退職。満洲国の新京に録音スタジオを新設して11月15日から録音を開始する。
1943年(昭和18年)10月6日に工場を失火で全焼。
1944年(昭和19年)5月25日 帝蓄工業株式会社に商号変更。
1945年(昭和20年)3月13日 この日の録音をもって録音を休止。レコードの製造は継続。終戦後は、直ちに標準盤の新規格を制定して代表作品の再発売を開始する。
1946年(昭和21年)3月21日 戦後の新録音を再開する。同年10月には社章を新しくしたが、レコードのレーベルは在庫分と新規分が混在しており一斉変更ではない。
1950年(昭和25年)12月18日 社長の南口重太郎が死去。
1951年(昭和26年)1月6日 南口重治が新社長に就任。同年9月に米国デッカとの契約成立。それに伴いSPレコードの品質が格段に向上する。
1952年(昭和27年)2月 デッカ・レコードを発売。
1953年(昭和28年)4月1日 テイチク株式会社に商号変更。同年、レコードの録音に磁気テープの使用を開始。
1954年(昭和29年) LPレコード・EPレコードの発売を開始。
1961年(昭和36年) 杉並堀之内の録音スタジオ改築完成。同年9月11日に松下電器産業と提携。
1969年(昭和44年) 米デッカとの契約終了。発売権はビクターレコードに移籍し、移籍後レーベル名を「MCA」とする。
1985年(昭和60年) グロビュール音楽出版株式会社設立。

wikipediaより抜粋

テイチク(帝国蓄音機)の戦前ロゴマークの大楠公像は、今でも東京駅から皇居に向かうと、皇居外苑の左側にあります。二重橋を正面に見据えるこの像は、楠木正成公が1333年(正慶2年)隠岐の島から還幸途次の後醍醐帝を兵庫の道筋でお迎えした折の勇姿を象ったものです。
これは、住友家が別子銅山開坑200年記念事業として献納したもので、1891年(明治23年)に東京美術学校(現・東京芸大)に製作を依頼し、同鉱山の銅を用いて高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲などにより、10年を費やし完成しました。建武の中興の立役者である楠木正成は、今でも皇居脇で天皇を守護しています。

 

ポリドールレコード
webサイト shikakute-marui.com内の、戦前レコード会社紹介。ポリドールレコードのページ

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