タイヘイレコード

レコードレーベル紹介
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タイヘイレコードはかつて日本にあったレコード会社、幾多の変遷を経て日マーキュリーとして、現在に至っている。

1924年(大正13年)8月10日 – 日本蓄音器商会(後の日本コロムビア)のディレクターだった森垣二郎が、ライジングサン石油の兵庫県総代理店の松田文藏に持ち掛け、合資會社内外蓄音器商會を兵庫県西宮市今津に設立し、レコード試作に着手。
1925年(大正14年)3月1日 – ナイガイレコードレーベルで新譜第一弾を発売。間もなく電気吹き込みにも対応し、歌謡曲・演芸中心の大衆迎合的なラインナップによって、関西有数のレコード会社へと急成長。
1930年(昭和5年)11月5日 – 太平蓄音器として株式会社化。新社長には松田光眞(文藏の弟)が就任し、貝星印、タイヘイレコードのレーベルを用いるようになる。
1935年(昭和10年)11月1日 – 関西の老舗レコード会社日東蓄音器(ニットーレコード、ツバメ印)を、傘下の日本クリスタル蓄音器合資會社(クリスタルレコード)共に吸収合併し、大日本蓄音器に組織改編。タイヘイレコードをメインとしクリスタルは洋楽、ニットーレコードはサブレーベルと位置づけた。レーベルは燕印、タイヘイレコードを継続使用する他、キリンレコード、コメットレコード、オリムピアレコードも併用。
井田照夫、阿部幸次、三原純子、有島通男、立花ひろし、渡辺光子、紀多寛(後の北廉太郎)、鮫島敏弘(後の近江俊郎)、水田潔/永田潔/牧忠夫(中野忠晴の変名)、藤田不二子(松島詩子の変名)、小川文夫/松平不二夫(松平晃の変名)らが所属。
1941年(昭和16年) – 森光子のデビュー作『白衣の勇士を送る歌』が内務省検閲で発禁処分になる。
1942年(昭和17年)2月1日 – 国家総動員法下の企業統合政策によって、西宮本社と各工場はキングレコードの親会社・大日本雄辯會講談社に買収されキングレコード西宮工場・尾久工場となったが、軍需工場指定を受けレコードではなく航空機部品を生産した。
戦後
1950年(昭和25年)1月 西宮本社工場・尾久分工場を石井廣治ら大日本蓄音器時代の有志が買い戻し、新生タイヘイレコードとして復興。
1951年(昭和26年)6月 – タイヘイ音響に社名変更し、新譜の制作を再開。
1952年(昭和27年) – アメリカのマーキュリー・レコードと独占契約締結。ジャズの洋楽盤が人気沸騰する。
1953年(昭和28年)6月1日 – 社名を日本マーキュリー株式会社と改め、東海林太郎、瀬川伸、岡晴夫、田端義夫、青葉笙子、豆千代、竹山逸郎、平野愛子などのベテランに加え、藤島桓夫、野村雪子、松山恵子、西田佐智子(後の西田佐知子)などの新人歌手の活躍によって、隆盛を極めた。
1957年(昭和32年) – 独占契約満了に伴い、マーキュリー・レコードの発売権をキングレコードに委譲する。
1960年(昭和35年) – 休業状態に陥り、旧盤の版権の一部はマーキュリー・レコード本社に移った。
1980年(昭和55年)8月 – 土地空け渡しのため廃業を余儀なくされ、内外蓄音器商會に始まった56年の歴史に幕を閉じた 。

2009年(平成21年)11月、旧 日本マーキュリー(株)の旧盤の版権と商標権を継続し、一般社団法人 日本マーキュリーとして復活設立。
2010年(平成22年)1月、旧 日本マーキュリー(株)の旧盤の版権と商標権を継続し、旧 日本マーキュリー廃業から30年にして復活。新生 一般社団法人 日本マーキュリー事業復興。

wikipediaより抜粋

関西発のレコード会社として、一時期は隆盛したのだが、太平洋戦争により同業のキングと合併させられた結果、会社はなくなり、タイヘイ・ニットーブランドのみが存続した。戦後アメリカのマーキュリーの版権をえて、ジャズ関係では大きく成長したのだが、その分国内音楽が伸びず結果的に、原盤もキングに譲渡せざるを得なくなった。現在は終戦直後の歌謡曲全集を発行した後、目立った動きは出ていない。時代に翻弄されたレコード会社である。レーベルとしては、上記以外にもナイガイ、キリン、コメット、オリムピア等がある。

その他レーベル
webサイト shikakute-marui.com内の、戦前レコード会社紹介。その他レコード会社のページ。

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